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いろいろな考え方
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性生活の考え方
活力論と同様、重要なのは外的な原理ではなくて内的な誠実であることを確言する。しかしながらそれは、同時にまたこれら二つの答に反対である。道徳主義は、人格的な神に対する具体的な服従でなしに、非人格的な原理に対する月を要求する点において間違っている。それは福音の代りに律法を説く。
すなわち換言すれば、悟ー外的な法則を適用することによって自らを救うことができると信ずる。これに反し、聖書は、神の賜物であるところのゆるしと新生とをわれわれに与えるのである。しかし純粋に生物学的な見方は、神と被造物との間に存在する束縛、すなわち人生全体の神律を否定する点において正しくない。アウグスチヌスのように「神を愛し、欲するところをなせ」という代りに、それは根本的なことを忘れてただ「汝の欲するところをなせと言う。
性生活は単に抑圧されるために存在するのではない。それは積極的な意味を持っている。聖書は、心とからだ、神と自然の間をはっきりと区別する哲学とは無縁である。この本能は神の被造物の一部で、神の栄光のために用いられなければならない。しかしあらゆる人間的なものと同様に、この本能は罪によって壊敗せしめられている。それは自らにおいては善でない。それは新たにせられ、再び方向を示され、きよめられなければならない。
以上述べたことは、キリスト者によってかなり一般的に認められている。しかし、生ぎてゆくにはそれで十分であろうかということが当然疑問になるであろう。性生活の目的は神の栄光であるということーー口、ある。しかしそれは、具体的にはどういうこと意味するであろうか。幸い聖書はそれについてさらに教えている。聖書は道徳主義のように原理的な法則を与えるのでなく、それ以上のことをする。すなわち、神の意志を啓示された人の証書を歴史や戒めの形において与え、なかんずく、啓示そのものであり給う主のみことばと模範とを与える。それはわれわれを絶対的な律法と対決せしめない。
なぜなら、われわれは、律法の下にではなく、恩恵の下に生きるからである。神の意志は究極的には予見できない独特なもので、信仰という行為によってのみはじめて知ることができる。しかし、聖書の全内容、、すなわち歴史や範例や勧告、戒め、寓話等は、それにもかかわらず絶大な重要さを保っている。それは、われわれに対する神の特別な意志を見出すために、われわれはいかなる方向を探求すべきであるかを示すところの道標である。それは、われわれが、神「の行為や神がわれわれを導く方法を学ぶ学校である。
それは、神の支配する国を望見することのできる半ば開かれた扉である。聖書は、神の創造と救いのわざの立場から見る時、性生活の大きな事実-男女の相違、結婚、性本能等が全く特殊な意義を獲得することを示す。かくしてそれは、現代の混沌たる風俗と性に関する意見の中で、われわれの進むべき道を見出すために必要なものを提供する。
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